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九州大学に5億円を寄付した中本博雄さんが話題になっています。
九州大学への個人の奨学金名目の寄付では「過去最高金額」とのことで、多くのテレビ番組や新聞社がこぞって報道していますね。
今回は、その中本博雄さんについてまとめていきます。
5億円という大金をどのようにして貯めたのか?
中本さんの経歴を探りながらその謎に迫っていきます。
中本博雄さんの経歴
中本博雄さんは、1938円生まれの御年80歳になる方です。
第2次世界大戦前に旧満州で誕生しました。
1945年の終戦の翌年に日本に引き揚げたそうです。
北九州市に引っ越した中本さんは、小倉西高等学校へ進学しました。
小倉西高等学校は、1898年創立の伝統ある学校です。
中本さんの後輩には、俳優の草刈正雄さんや、元プロ野球選手で名審判としても活躍した「俺は村田だ!」の名セリフで有名な村田康一さんがいらっしゃいます。
中本さんは小倉西高校で数学や化学に熱中するようになります。
恩師からも九州大学への進学を勧められますが、家が貧しかったことで父親から反対されます。
進学をあきらめ、実家の個人商店で勤務しながら独学で数学や化学の勉強にのめり込みました。
両親への感謝とお客さんの笑顔のために27歳まで無給で働いていたそうです。
その後、独学で身に着けた知識を使って、静電気を利用したコピー機の特許を日本とアメリカで取得し1987年昭和62年10月8日に印刷会社「青陽社」を立ち上げます。
福岡市で創業した中本さんの会社は成功を治め、福岡県内外に本社を含む5つの営業所を建てました。
現在は経営を息子の純徳さんに譲渡し、自身は福岡市城南区で奥様の稔恵さんと静かに暮らしています。
中本博雄さんはなぜ九州大学へ寄付をしたのか?
中本博雄さんは高校卒業後、大学進学をお金の問題であきらめました。
恩師である先生が5回も自宅へきて父親を説得したそうですが、お父さんは首を縦に振らなかったそうです。
中本さんは本当に勉強がしたかったという思いはあったものの、家の経済事情により泣く泣く断念せざるを得なかったことを悔やみました。
仕事をしながらでも勉強はできるとおもい、執念で勉強を続け、コピー機を開発して特許を取得しました。
「失敗しても失敗してもあきらめない。執念を持ち続けて頑張れば道は開ける」という信念を持って結果を出した中本さん。
その後、1998年に脳梗塞で倒れましたが、その際に診察してくれたのが九州大学卒業のお医者様でした。
自身が行きたかった九大卒のお医者様に命を救ってもらえたということを天啓と感じ、九州大学に寄付を決意したそうです。
日本の寄付文化の醸成に貢献したいという思いもあったそうです。
九州大学は、「中本博雄賞」という名前で奨学金制度を創設するという報道がありました。
中本さんは自身の体験を通して、勉学に必死に取り組む若者にたいして何かしてあげたいという思いと、執念を持って勉学に励む若い人に渡した方がお金は生きるということを考えて寄付を決意しました。
中本さん自身が稼いだお金で大豪邸を建てたり、贅の限りを尽くしたりすることも可能だったはずです。
それを捨て、自身の勉学が元で得た収入を、未来に残すという行動は中々できることではありません。
人間力=感謝力と良く言いますが、自身を育ててくれた両親や、自身の進学のために5回も自宅で父親を説得してくれた恩師、自身の命を救ってくれたお医者様に感謝する心を持っているからこそ、この行動が生まれたのではないでしょうか?
中本博雄賞が九大を目指す若者達の道しるべになると期待したいですね。
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