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1980年代に子役スターとして大活躍していた、間下このみ。名前を聞いてピンとこない人も、キッコーマンのCM「ガンバレ玄さん」に出演していた女の子と聞けば、その可愛らしい姿を思い出すのではないだろうか。その後、テレビドラマやCM、映画などに数々出演し多忙な少女時代を過ごし、中学入学と同時に芸能活動から遠ざかっていた。
そして再び私たちの前に姿を見せてくれた彼女は、壮絶な人生を生きていた。死産、難病、病を乗り越えての出産。そんな「このみちゃん」の半生を追ってみた。
間下このみの難病とは
間下このみが芸能活動を自粛したのは、私立の中高一貫校の入学したことがきっかけだった。学業に専念させたいという親の方針だったようだ。高校卒業後は東京ビジュアルアーツ写真学科に入学。写真家を目指し、アメリカに留学。帰国後、2004年頃から芸能活動を再開し、同時に写真家としても活動している。
2005年に発売された写真集「届かなかったラブレターあの空の向こう」は「泣かせる写真集」として異例のヒットを記録した。2004年6月には、写真の仕事を通じて知り合った11歳年上の男性と結婚。女性としての幸せもつかんだ。順風満帆に思える彼女が最初の悲劇と対面することになったのは、幸せな出来事のはずの妊娠がきっかけだった。
結婚から1年半後に妊娠が発覚したが、その赤ちゃんは6カ月後に死産。その悲しみを乗り越えての2度目の妊娠が分かった2006年10月、検診で行った血液検査で今度は病魔に侵されていること知る。病名は「抗リン脂質抗体症候群」
「抗リン脂質抗体症候群」とは、体を守るために異物を排除する役割をもつ免疫系の疾患である。自分の細胞や組織などに対して生まれる自己抗体が原因で、血液が固まりやすくなり、動脈や静脈の血栓症や胎盤微小血栓を引き起こす病気である。国内の罹患者数は1万人程度であるということから、比較的珍しい病気と言える。
胎盤にも血栓が出来てしまうということだから、第1子の死産もこの病気が引き起こしたものだったのだろうか。この病気は習慣性流産の原因の一つと言われている。だが彼女のお腹の中には新しい命が宿っている。「この子だけは失いたくない」強い決意のもと、彼女は治療を続けながら出産の日を待った。
出産・離婚を乗り越えた現在
血栓を防ぐ注射を出産まで毎日、5カ月の間打ち続け、合併症による全身の倦怠感や食欲不振に苦しんだ末、2007年3月15日、間下このみは、全身麻酔の帝王切開で無事に長女「めのあちゃん」を出産した。予定日より約1カ月早かったためか、2155gと小さめに生まれたが、元気にすくすくと育った。
この闘病生活と出産までの日々を夫と綴った「ママになりたい」は、2013年に平愛梨主演でドラマ化され、大きな反響を呼んだ。間下このみは、現在も病気と闘っており、投薬治療と検査の日々を送っている。
そんな中、第1子の死産から闘病、出産までの日々をそばで支えてきた夫との離婚が今ささやかれている。本人は正式に発表していないが、ブログへの登場回数が減っている、出演したテレビ番組で結婚指輪をしていなかったなど、憶測する声が先走りしている状況である。しかし、火のないところに煙は立たない。離婚はしていないにしても、それに近い状況にあることは考えられる。
いずれにしても、間下このみは今、病気と闘いながら命を懸けて産んだ娘を守り育てている。そして、自らの経験を通して、「抗リン抗体症候群」という病気を広く世間に認知してもらうため、子育ての合間に講演活動も行っている。悲しい思いをする人をなくしたい、それが間下このみの願いである。
幼いころに脚光を浴び、スターに祭り上げられ、そのせいでその後の人生を狂わせてしまった子役は少なくない。そんな中、間下このみは死産、難病、離婚と次々に降りかかる試練に向き合い、これを乗り越え、今たくましい母として生きている。
「赤ちゃんは当たり前のように生まれてくるものではないと思います。私たち自身も、奇跡に奇跡を重ねて生まれ、生きているということを忘れずにいたいと思います」
間下このみの言葉が、重く響く。